ブンゴウサーチ
児童書版
TOP 斎藤茂吉 全作品

斎藤茂吉の全作品

青空文庫で公開されている斎藤茂吉の全作品41篇を、おすすめ人気順で表示しています。

1〜41件 / 全41件
Tweet
作品名
著者
読了時間
人気
万葉集は我国の大切な歌集で、誰でも読んで好いものとおもうが、何せよ歌の数が四千五百有余もあり、一々注釈書に当ってそれを読破しようというのは並大抵のことではない。
八十吉僕は維也納の教室を引上げ、笈(きふ)を負うて二たび目差すバヴアリアの首府民顕に行つた。
君が歌百首を發表すると聞いたとき僕は嬉しいと思つた。
西暦一九二三年九月三日。
大正十四年八月四日の朝奈良の宿を立って紀伊の国高野山に向った。
大正七年大正八年大正七年漫吟斎藤茂吉送別歌会大正六年十二月二十五日東京青山茂吉宅に於てわが住める家のいらかの白霜を見ずて行かむ日近づきにけり長崎著任後折にふれたるうつり来しいへの畳のにほひさへ心がなしく起臥しにけり据風呂を買ひに行きつつこよひまた買はず帰り来て寂しく眠る東京にのこし来しをさなごの茂太もおほきくなりにつらむかかりずみのねむりは浅くさめしかば外...
那智には勝浦から馬車に乗って行った。
ある晩カフェに行くと、一隅の卓に倚(よ)ったひとりの娘が、墺太利の千円紙幣でしきりに鶴を折っている。
昭和九年の冬に、岩波茂雄さんの厚意によつてはじめて露伴先生にお目にかかり、その時は熱海ホテルで数日を楽しく過ごした。
曼珠沙華は、紅い花が群生して、列をなして咲くことが多いので特に具合の好いものである。
歌人【本名】折口信夫【閲歴】明治二十年二月十一日、大阪市浪速區鴎町一丁目に生れた。
妻はやはり Sexus Sequior と見立てなければつまりは満足は出来まい。
私は七つのとき村の小学校に入つたが、それは明治廿一年であつた。
『書』のことになると、中華の人々は昔から偉い。
欧羅巴には、骨骼の逞(たくま)しい、実に大きな馬がいる。
最上川は私の郷里の川だから、世の人のいふ『お国自慢』の一つとして記述することが山ほどあるやうに思ふのであるが、私は少年の頃東京に来てしまつて、物おぼえのついた以後特に文筆を弄しはじめた以後の経験が誠に尠(すくな)いので、その僅の経験を綴(つづ)り合せれば、ただ懐しい川として心中に残るのみである。
おなじ結核性の病で歿(ぼつ)した近ごろの文学者でも、やはり行き方に違ふところがあるやうに思ふ。
もうそろそろ体に汗のにじみ出るころであつたから、五月を過ぎてゐたとおもふ。
大石田に来てから、最上川に大きな鯉が居るといふ話を一再ならず聞いた。
○選定の結果、數萬といふ資料の歌がただ百首になるのであるから、實に澤山の推薦歌が選に漏れたことになり、殘念至極であるけれども、これは大方君子の海容をねがはねばならない。
蚤という昆虫は夏分になると至るところに居るが、安眠を妨害して、困りものである。
森鴎外の作、「うたかたの記」といふ短篇は、ミユンヘンを場面として、巨勢といふ若い日本洋画家と、マリイといふ独逸少女との恋愛を物語り、少女は湖水に溺れて、『少女は蘇らず。
雷のことをイカヅチと云つて、古事記にも大雷、黒雷等とあるが私は嘗(かつ)てイカヅチは厳槌で、巨大な槌といふ語原だらうと思ひ、上代人が、彼の響きを巨大な槌を以て続けさまに物を打つと考へたその心理を想像したのであつたが、それは素人的な理窟で、実は間違つて居た。
媼(おうな)の名は、Marie(マリー) Hillenbrand(ヒルレンブラント) といふ。
私のところに只今孫が二人居る。
大宮の内まで聞ゆ網引すと網子ととのふる海人の呼び聲長奧麻呂この歌は長忌寸奧麻呂(傳記未詳)が文武天皇三年正月、難波宮に行幸あそばした時に供奉して、詔を奉じて詠んだものである。
三年と云つても、この三年といふものは、三十年ぐらゐの気持であつた。
ポンペイの街をやうやく見物してしまつて、午過ぎて入口のところの食店で赤葡萄(ぶだう)酒を飲み、南伊太利むきの料理を食べて疲れた身心を休めてゐる。
強い双葉山が、四日目に安芸ノ海に負け、五日目に両国に負け、六日目に鹿島洋に負けたので、贔屓客が贔屓するあまり、実にいろいろの事をし、医者の診察をすすめたり、心理学の大家の説を訊いたり、いろいろの事をしてゐる。
故正岡子規先生の『仰臥漫録』は、私の精神生活にはなくてかなわぬ書物の一つであった。
イーサル川は南の方のアルプス山中から出て、北へ向つて流れてゐる。
今日は愛國歌について一言を徴せられたが、大東亞戰爭の勃發して以來、國民が奮つて愛國歌を讀み、朗誦し、萬葉集に載つた、『海ゆかば水漬く屍山ゆかば草むす屍大皇の邊にこそ死なめ顧みは爲じ』や、『けふよりは顧みなくて大君の醜の御楯といでたつわれは』の如きは、全く人口に膾炙せられるに至つた。
此方から見ると対岸の一ところに支流の水のそそいでゐるのが分かる。
人麿の妻は、万葉の歌から推しても、二人だといふ説があり、三人だといふ説があり、四人だといふ説があり、五人だといふ説がある。
瑞西の首都 Z※rich(チュリヒ) をば午後二時十分発の急行列車で立った。
西暦一九二三年八月十三日、Rothmund(ロートムント) 街八番地に貸間があるといふので日本媼の息子が案内してくれた。
維也納の G※rtel(ギユルテル) 街は、ドナウ運河の近くの、フランツ・ヨゼフ停車場の傍から起つて、南方に向つて帯のやうに通つてゐる大街である。
短歌には形式上の約束があるために、新らしい言葉がなかなか入り難い。
大正十五年三月十八日の朝、東京から行つた藤沢古実君が、※蔭山房(しいんさんばう)に赤彦君を見舞つた筈(はず)である。
この追憶随筆は明治二十九年を起点とする四、五年に当るから、日清戦役が済んで遼東還附に関する問題が囂(かまびす)しく、また、東北三陸の大海嘯があり、足尾銅山鉱毒事件があり、文壇では、森鴎外の『めさまし草』、与謝野鉄幹の『東西南北』が出たころ、露伴の「雲の袖」、紅葉の「多情多恨」、柳浪の「今戸心中」あたりが書かれた頃に当るはずである。
この息もつかず流れている大河は、どのへんから出て来ているだろうかと思ったことがある。
マークのついた作品は著作権が存続しています。 詳細は 青空文庫公式サイトの取り扱い基準 をご確認のうえ、取り扱いの際は十分注意してください。