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坂口安吾の全作品(5ページ目)

青空文庫で公開されている坂口安吾の全作品451篇を、おすすめ人気順で表示しています。

201〜250件 / 全451件
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「真相」という雑誌に、私が昨年「風報」にのせた文章が一部抜萃して載っている。
今日雑誌が一口にジアナリズムなる言外に多くの悪徳を暗示した汚名によつて呼ばれる時世となり、文学の本道まで万事浮遊して落付かぬ状態をつづけてゐる時に、一つくらゐジアナリズムに超然とし、正しき流行をつくるとも流行に追はれぬ雑誌が欲しいと思ふ。
……先頃、文芸銃後運動の講演会か何かがあって、壇上の諸家が期せずして一人も文学を語らなかったというので、この事実に非常に感動した文章を書いていた作家があったけれども、僕にはどうも不思議な気持がするばかりで腑に落ちないこと夥しい。
碁の専門家は十四五歳で初段になるのが普通ださうだ。
先ごろの本欄に僕の「風報」にかいた「天皇陛下に捧ぐる言葉」を評して俗うけを狙った媚態露出だとのことであるが、白井明先生の鑑賞眼は浅薄低俗と申さなければならない。
歳末にコヨミをもらってページをくりつゝ新しい年を考える。
山本元帥の戦死とアッツ島の玉砕と悲報つづいてあり、国の興亡を担ふ者あに軍人のみならんや、一億総力をあげて国難に赴くときになつた。
木枯国で捕虜となった一日本人市民が、その地の病院勤務を命ぜられ、雑役夫として働きつつある物語である。
一月二日発表のハワイ襲撃の指揮官○○中佐の談話は、文章を職業にする者から見て、ひとり同胞のみならず全世界の鶴首を満足せしめるに充分の文章力が具はつてをり、敬服に堪へぬものがあつた。
日本は天皇によつて終戦の混乱から救はれたといふが常識であるが、之(これ)は嘘だ。
「馬車物語」(新東宝)の撮影に、伊豆へロケーションに行ったことを徳川夢声氏が随筆に書いている。
以前新井白石の「西洋紀聞」によつてシドチの潜入に就て小説を書いたとき、屋久島はどんな島かしらと考へた。
以前新井白石の「西洋紀聞」によってシドチ潜入に就て小説を書いたとき、屋久島はどんな島かしらと考えた。
文学も勿論さうだが、生活も、元来が平時のものである。
私の書斎が二ヶ年ほったらかしてあるのは、別にとりたてゝ理由あることではないのである。
御手紙ありがたく存じました。
日本に戦争があってくれれば――私は二十年前から、そう考えていた。
過去の文士の論争がどんな風に行われたかということについて私は不案内であるが、佐藤春夫、河盛好蔵両先生の大論争には新時代風があると思った。
私は社会人としての自我というものを考えるから、政治についても考えるけれども、政治家にはなる筈のない生れつきである。
塩入三段と岩谷社長とフラリときて挑戦するのを迎えうって、僕が塩入三段に勝った。
夏場所が近づいた。
「南紀風物誌」といふ本がある。
輓近日本帝国に於きましては実子殺しとか若妻殺しとかその他色々賑やかな文化的事件があります。
如何に生くべきか、ということは文学者の問題じゃなくて、人間全体の問題なのである。
十何年前のことだが本因坊秀哉名人と呉清源(当時五段ぐらいだったと思う)が争碁を打ったころは碁の人気は頂点だった。
岡本綺堂「相馬の金さん」僕はこの有名な舞台を見たことがなく、読んだのだけれども、一場面が記憶に残つてゐる。
人間通の文学というものがある。
ヨーロッパ精神は実在するか、また実在するとせば如何なるものがそれであるか、といふことが西洋の思想界でもだいぶ問題になつてゐるといふことで、私もヌーヴェル・リテレールのアンケートで同じ質問の解答を読んだ記憶がある。
私の小説が観念的だといふのは批評家の極り文句だけれども、私の方から言ふと、日本の小説が観念的でなさすぎる。
新潟へ帰ることはめつたにないが、先年村山政司氏等の個人展を新潟新聞楼上にひらいたとき、私も三週間ほど新潟に泊つた。
私の終戦後の作品のうち「外套と青空」「白痴」以後の今日までの短篇の大部分をまとめたものです。
いろは加留多には「ン」がない。
幽霊の凄味の点では日本は他国にひけをとらない。
私は一家言といふものを好まない。
私はスタンダアルが好きであるが、特に私に興味のあるのは、彼の文体の方である。
敵は中小都市の予告爆撃というものをやりだしたが、これはつまり予告殺人事件と同じ性質のものだと思われる。
朝日新聞の八段位獲得戦木谷七段対久保松六段の対局で呉七段の解説。
私はサルトルについてはよく知らない。
最近私は、N・R・Fの新年号に於て、イリヤ・エレンブルグが「青年期ロシヤ」という一種の報告書を寄せているのを読んだ。
「海の霧」は私が始めて職業雑誌といふものへ書いた、つまり原稿料といふものを貰つた最初の作品で、昭和六年夏、私は二十六であつた。
織田作之助が死んだ。
璽光様の話がでるとみんなが笑う。
花田清輝の名は読者は知らないに相違ない。
私は戦争中、日本映画社の嘱託をしていた。
道鏡といふ題名はよくなかつた。
二十年ほど昔「アドルフ」を買ったら百六十何版とあったのを記憶する。
競輪というと八百長騒ぎが景物のようだが、終戦後急速に流行して、組織が完備していないからいろいろのトラブルが起るのは仕方のないことで現にそうだからといって、競輪の性格がそういうものだときまってるワケでもなかろう。
一年半京都に住んで、本郷へ戻つてみると、街路樹の美しさが、まつさきに分つた。
パヂェスの「日本切支丹宗門史」だとか「鮮血遺書」のやうなものを読んでゐると、切支丹の夥しい殉教に感動せざるを得ないけれども、又、他面に、何か濁つたものを感じ、反撥を覚えずにゐられなくなるのである。
今日(四月七日)どこかの新聞にボクが東大神経科の三階から飛降り自殺をしたという記事が出た由、朝来各社の記者と写真班がつめかけて、撃退に往生したという千谷先生(ボクの主治医)の話であった。
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