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坂口安吾の全作品(8ページ目)

青空文庫で公開されている坂口安吾の全作品451篇を、おすすめ人気順で表示しています。

351〜400件 / 全451件
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ぬばたまのなにかと人の問ひしとき露とこたへて消なましものをその加茂五郎兵衛の加茂は古い姓です。
「枯淡の風格」とか「さび」というものを私は認めることができない。
人間ぎらい、という人は、いないとみた方が本当だろう。
私は先般イサム・ノグチ展というものに誘われたが、熱心に辞退して、難をのがれた。
二ヶ月ばかりお目にかかりませんが、御元気のことは、時々人づてにきいてゐました。
下山事件が他殺か自殺か我々には分らない。
巷談の十二は「京の夢、大阪の夢」京都大阪をひやかしてスゴロクの上りにしようという予定であった。
元和寛永のころというと、今から三百二三十年前のことだが、切支丹が迫害されておびたゞしい殉教者があったものだ。
有りうべからざる奇怪のことこの世には、とても有り得まいと思はれることが、往々有りうるのである。
小説の文章を他の文章から区別する特徴は、小説のもつ独特の文章ではない。
「文芸」二月号所載、アンドレ・ジイドの「一つの宣言」は興味深い読物であった。
いつの頃だか知らないが、或る日総理大臣官邸へ書留の手紙がとどいた。
私は「警視総監の笑ひ」も「芥川賞の殺人」も面白く読めなかった。
私のところには二人ねるだけのフトンしかないのである。
この原稿を書こうという予定の日になって、久しく忘れていた胃ケイレンを起した。
秀吉は意志で弱点を抑へてゐた、その自制は上り目の時には楽しい遊戯である。
その娘の父は独力相当の地位と富を築きあげた実業家でありました。
私はミン平が皮のジャムパーを着てやつてきた時には、をかしくて困つた。
餅を落した泥棒土地によって一風変った奇習や奇祭があるものだが、日本中おしなべて変りのないのは新年にお餅を食べ門松をたてて祝う。
僕らが「言葉」という飜訳雑誌、それから「青い馬」という同人雑誌をだすことになって、その編輯に用いた部屋は芥川龍之介の書斎であった。
その朝は玄関脇の応接間に×社の津田弁吉という頭の調子の一風変った青年記者が泊りこんでいた。
私はこれより一人の男がこの戦争に対処した数々の秘策と工夫の人生に就てお話したい。
芸術の最高形式はファルスである、なぞと、勿体振つて逆説を述べたいわけでは無論ないが、然し私は、悲劇や喜劇よりも同等以下に低い精神から道化が生み出されるものとは考へてゐない。
お奈良さまと云っても奈良の大仏さまのことではない。
私は子供のとき新聞紙をまたいで親父に叱られた。
牧野さんの自殺の真相は彼の生涯の文章が最もよく語つてゐる。
新聞で読者の最も多いのは「人生案内」とか「身上相談」という欄だそうだ。
十万円で息子を殺さす――布教師ら三名逮捕――【青森発】先月二十三日東北本線小湊、西平内間(青森県東津軽郡)線路わきに青森県上北郡天間林村天間館、無職坪得衛さん(四一)の死体が発見され、国警青森県本部と小湊地区署は他殺とみて捜査を進め、去る八日、主犯として青森県東津軽郡小湊町御嶽教教師須藤正雄(二五)を検挙、さらに十八日朝被害者の実父である上北郡天間林村天間館、民生委員、農坪得三郎(六一)と得三郎を須藤に紹介した同、行商坪勇太郎さん妻御嶽教信者しげ(五〇)...
その渡辺小左衛門は鳥銃をぶらさげて冬山をのそ/\とぶらついてゐる男のことを考へると、ちようど蛇の嫌ひな者が蛇を見たときと同じ嫌悪を感じた。
松谷事件は道具立が因果モノめいていて、世相のいかなるものよりも、暗く、陰惨、蒙昧、まことに救われないニュースであったが、骨子だけを考えれば、昔からありきたりの恋の苦しみの一つで、当事者の苦しみも察せられるのである。
十二月八日以来の三ヶ月のあひだ、日本で最も話題となり、人々の知りたがつてゐたことの一つは、あなた方のことであつた。
女房がニンシンしたが、子宮後屈ということで、生むことができなかった。
一の巻椋原孔明とよぶ尊厳な弁護士があつた。
梅木先生は六十円のオツリをつかんで中華料理店をとび出した。
発端木枯の荒れ狂ふ一日、僕は今度武蔵野に居を卜さうと、ただ一人村から村を歩いてゐたのです。
先月某新聞に競輪のことを書いたが、そのときはまだ競輪を見たことがなかった。
私が精神病院へ入院しているとき、妙な噂が立った。
「ヘタな小説が売れなくなって巷談師になったのか。
朝巻信助は火星人といふ渾名であつたが、それは頭デッカチで口が小さいといふ意味ながら、顔が似てゐるためではなく、内容的な意味であつた。
新聞の静岡版というところを見ると、熱海を中心にした伊豆一帯に、心中や厭世自殺が目立って多くなったようである。
一人の部隊長があって、作戦を立て、号令をかけていた。
人形をだく婦人の話高木貴与子(卅四歳)女礼チャン(六ツ)の事でございますか、動機と申しましても、さあ他人はよく最愛の子供を亡くしたとか、失恋して愛情の倚(よ)りどころを人形に托したと御想像になりますが、これといって特別な訳があるのではございません。
群馬県の上越国境にちかい山間地帯を利根郡という。
支那事変の起つたとき、私は京都にゐた。
前頭ドンジリの千鳥波五郎が廃業してトンカツ屋を開店することになったとき、町内の紺屋へ頼んだノレンが届いてみると「腕自慢、江戸前トンカツ、千鳥足」と意気な書体でそめあげてある。
食堂の二階には僕の外にノンビリさんと称ばれる失業中の洋服職人が泊つてをり、心臓と脚気が悪くて年中額に脂汗を浮かべ、下宿料の催促を受けて「自殺したうなつた」かう呟きながら階段を降りたり上つたりしてゐたが、食堂の娘の家出に就て、女学校の四年生に弁当の配達をさせるのがいけないのだ、と非常にアッサリ断定した。
私は戦争まえまではヤミという言葉を知らなかった。
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