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10分以内で読める坂口安吾の短編作品

青空文庫で公開されている坂口安吾の作品の中で、おおよその読了目安時間が「10分以内」の短編58作品を、おすすめ人気順に表示しています。

(2,001〜4,000文字の作品を対象としています。読了時間は「400字/分」の読書スピードで計算した場合の目安です)
1〜50件 / 全58件
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阿部定さんに会つた感じは、一ばん平凡な下町育ちの女といふ感じであつた。
上小林秀雄と島木健作が小田原へ鮎釣りに来て、三好達治の家で鮎を肴に食事のうち、談たま/\ラムネに及んで、ラムネの玉がチョロ/\と吹きあげられて蓋になるのを発明した奴が、あれ一つ発明したゞけで往生を遂げてしまつたとすれば、をかしな奴だと小林が言ふ。
数百万の血をささげたこの戦争に、我々の心を真に高めてくれるような本当の美談が少いということは、なんとしても切ないことだ。
(上)私がヒロポンという薬の名をきいたのは六七年前で、東京新聞のY君がきかせてくれたのである。
空にある星を一つ欲しいと思いませんか?思わない?そんなら、君と話をしない。
悪妻には一般的な型はない。
私は今から二ヶ月ほど前に胃から黒い血をはいた。
散文に二種あると考へてゐるが、一を小説、他を作文とかりに言つておく。
東洋大学の学生だったころ、丁度学年試験の最中であったが、校門の前で電車から降りたところを自動車にはねとばされたことがあった。
私はいつか眼鏡をこわしたことがあった。
「問はず語り」は話が好都合にできすぎてゐる。
東洋大学の学生だつたころ、丁度学年試験の最中であつたが、校門の前で電車から降りたところを自動車にはねとばされたことがあつた。
ある辺鄙な県庁所在地へ、極めて都会的な精神的若さを持つた県知事が赴任してきた。
小林さんにはじめて会ったのは、青山二郎の私宅であった。
ある婦人が私に言つた。
私はむかし十七の娘と友達になって、一緒にお酒をのんだり(娘はお酒が強かった)方々ホテルを泊り歩いたりしたが、そしてそれを言いだすのは多くは娘の方からであったが、私たちは肉体の交渉はなかったので、娘はいつもそれを激しく拒んだ。
私は将棋は知らない。
「漫画」という変な雑誌へオツキアイするせいではありませんが、私は、どうも、ブンナグラレルかも知れませんが、帝銀事件というものを、事の始めから、それほど凄味のある出来事だと思っていませんでした。
伝統の否定と一口に言うけれども、伝統は全て否定しなければならぬというものではなくて、すでに実質を失いながら虚妄の空位を保って信仰的な存在をつゞけていることが反省され否定されなければならぬというだけだ。
昨夜、ちやうど河田の夢を見た。
路上で煙次郎と草吉が出会つた。
私は越後の新潟市に生れたが、新潟市に限らず、雪国の町は非常に暗い、秋がきて時雨が落葉を叩きはじめる頃から長い冬が漸く終つて春が訪れるまで、太陽を見ることが殆んど稀にしかない。
人あるところに恋あり、各人各様千差万別の恋愛が地上に営まれてゐることはいふまでもないことであらうが、見方によればどの恋も似寄つたものだといへないことはない。
元旦正午、DC四型四発機は滑走路を走りだした。
雪の晩げに道を歩くと雪ジョロがでるすけオッカネぞとおらとこのオトトもオカカもオラたちに云うてオッカナがらすろも、オラそんげのこと信用しねわい。
(上)先日高見順君の文芸時評に私の「逃げたい心」の序文の文章をとりあげて、作家は外部条件に左右されて、作品が書けたり書けなかったりするようではダメなので、作品は作家が書くべきもの、「もっとマシな作品」が書けるはずで、書けなかったなどというのはウソだ。
小説新潮の新年号に、林忠彦の撮影した私の二年ほど掃除をしたことのない書斎の写真が載ったから、行く先々で、あの部屋のことをきかれて、うるさい。
「炉辺夜話集」といふこの本の題名は、この本にあつめられた五ツの物語に対して、作者がどのやうな心持をもつてゐるか、それを率直に表しもし、又、ある意味では、作者が文学そのものをどのやうなものに考へてゐるかといふことを、率直に露呈もしてゐます。
私には子供が生れないと思っていたので、家族のつもりで犬を飼っていた。
私は南の太陽をもとめて紀伊の旅にでたのです。
「青鬼の褌を洗う女」は昨年中の仕事のうちで、私の最も愛着を寄せる作品であるが、発表されたのが、週刊朝日二十五週年記念にあまれた「美と愛」という限定出版の豪華雑誌であったため、殆ど一般の目にふれなかったらしい。
六七年前、菱山と机を並べて仏蘭西語を学んでゐた頃、彼は強度の神経衰弱のやうであつた。
先日中央公論の座談会で豊島与志雄さんに会ったら、いきなり、近頃碁を打ってる?これが挨拶であった。
我孫子から利根川をひとつ越すと、こゝはもう茨城県で、上野から五十六分しかかゝらぬのだが、取手といふ町がある。
ハリスが通訳ヒュースケンを従え米国総領事の資格で下田に上陸したのは一八五六年九月三日(日本暦では八月五日)のことだ。
剣法というのは元来貴人に依存してきたもので、剣士は将軍や大名に召抱えられることを目標に修業に励んだものである。
推理小説というものは、文学よりも、パズルの要素が多い。
私は探偵小説をよむと、みんな同じ書き方をしているので、まずウンザリする。
戦争の目的とか意義とか、もとより戦争の中心となる題目はそれであつても、国民一般といふものが、個人として戦争とつながる最大関心事はたゞ「死」といふこの恐るべき平凡な一字に尽きるに相違ない。
フロオベエルの「感情教育」三巻を読んだ。
あの日は何月何日だったか、その前夜、雑誌の用で、たしか岩田専太郎先生の小説を持ってきて、私にサシエをかけ、という難題をフッかけにきたサロンのチンピラ記者、高木青年が、ちょッと顔をあからめなどして、ボク、アスは社用によって見合いでして、朝十時、早いです、これからウチへかえってズボンをネドコの下へしいてネオシをして、エヘエヘとロレツのまわらないようなことを言いだした。
日本には傑れた道化芝居が殆んど公演されたためしがない。
昔、武士が三四人集つた話の席で、首をはねられて、首が胴を放れてから歩くことが出来るかどうか、といふ話がでた。
上対局前夜、夕方六時、対局所の小石川もみじ旅館に両棋士、僕、三人集合、宿泊のはずであった。
この著作を刊行するに当つてラクロは神経を使つたらしい。
私は中戸川とみゑさんの「ひとりごと」を読んで、私が遺族だつたら、遺言通り燃しちやつたのにな、と思つた。
歌笑のような男、落語の伝統の型を破った人物は、私の短い半生でも、さきに金語楼、また同じころ、小三治(今、別の名であるが忘れた)などというのがいた。
僕は剣術を全然知らない。
丹羽文雄の向うをはるワケではないが、僕も西荻随筆を書かなければならない。
この九月末宇野浩二氏から電話がきた。
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