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TOP 高村光雲 短編(10分以内)

10分以内で読める高村光雲の短編作品

青空文庫で公開されている高村光雲の作品の中で、おおよその読了目安時間が「10分以内」の短編31作品を、おすすめ人気順に表示しています。

(2,001〜4,000文字の作品を対象としています。読了時間は「400字/分」の読書スピードで計算した場合の目安です)
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明治八、九年頃は私も既に師匠の手を離れて仏師として一人前とはなっておりましたが、さて、一人前とは申しながら、まだ立派に世に立つに到ったとはいえない。
江戸のいわゆる、八百八街には、火消しが、いろは四十八組ありました。
これから私のことになる――私は、現今の下谷の北清島町に生まれました。
とかくする中、ここに降って湧いたような事件が起りました。
御徒町に転宅しまして病気も概かた癒りました。
とかくしている中、また一つ私の生活に変化が来ました。
上野の戦争が終んで後私が十八、九のことであったか。
これから火事の話をします。
以前狆(ちん)のモデルで苦労した経験がありますから、今度はチャボのモデルは好い上にも好いのを選みたいというのが私の最初の考えであった。
佐竹の原に途方もない大きな大仏が出来て、切舞台で閻魔の踊りがあるという評判で、見物人が来て見ると、果して雲を突くような大仏が立っている。
それから、三月一杯掛かって、四月早々仕上げを終る……その前後にまた一つお話しをして置くことが出て来る……美術協会の展覧会は、毎年四月に開かれることになっている。
原型の楠公像はすべて檜材を用い、原型全部出来ましたので、明治二十六年三月十六日に学校庭内に組み立て、時の文部大臣並びに学校に関係ある諸氏の一覧に供したのであるが、住友家から学校へ製作を依嘱したのが明治二十三年。
そこで、これから師東雲先生の生い立ちを話します。
狆の製作が終ってから暫くしてふと鶏を彫ることになりました。
さて、これから後の始末をつける段となるのでありますが、急に師匠に逝かれては、どうして好いか方角も付きません。
「いやしくも仏師たるものが、自作を持って道具屋の店に売りに行く位なら、焼き芋でも焼いていろ、団子でもこねていろ」これは高橋鳳雲が時々私の師匠東雲にいって聞かせた言葉だそうであります。
暫く話を途切らしたんで、少し調子がおかしい……何処まで話したっけ……さよう……この前の話の処でまず一段落附いたことになっていた。
さて、今日から考えて見ても、当時私の身に取って、いろいろな意味において幸福であったと思うことは、師匠東雲師が、まことに良い華客場を持っていられたということであります。
早速彫らされることになる――この話はしにくい。
今の猫と鼠の話のあった前後の頃おい(確か十五の年)は徳川氏の世の末で、時勢の変動激しく、何かと騒擾が引き続く。
まず、いろいろの話をする前に、前提として私の父祖のこと、つまり、私の家のことを概略話します。
そこでまた話がいろいろ転々しますが、平尾賛平氏が、どうしてこうも私のために厚い同情を注いで下すったかということについては、今までお話をしたばかりでは少し腑に落ちかねましょうが、これにはちょっと因縁のあることで、それをついでに話します。
さて、今日までの話は、私の蔭(かげ)の仕事ばかりで何らこの社会とは交渉のないものであったが、これからはようやく私の生活が世間的に芽を出し掛けたことになります。
ちょうどこの彫工会発会当時前後は私は西町にいました。
その当時、私の友達で京橋桶町に萩原吉兵衛という人がありました。
宮城前なる馬場先門の楠公銅像についてお話しましょう。
合田氏のはなしを聞けば、なるほど耳寄りな話である。
堀田原から従前通り私は相更らず師匠の家へ通っている。
学校奉職時代の前に少し遡り、話し残したことを補充して置きたいと思います。
さて、鏡縁御欄間の仕事が終りますと、今度は以前より、もっと大役を仰せ附かりました。
美術学校の教授を拝命したのが三月十二日、奈良京都への出張が同月十九日、拝命早々七日ばかりで旅に出まして、旅から帰ると学校の人となり、私の今日までの私生涯がここで一転化することになったのでありますが、それはそれとして、今日はその翌年の明治二十三年の十月十一日に帝室技芸員を拝命した話をしまして、それから楠公の像を製作した話へ移りましょう。
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