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TOP 上村松園 短編(10分以内)

10分以内で読める上村松園の短編作品

青空文庫で公開されている上村松園の作品の中で、おおよその読了目安時間が「10分以内」の短編29作品を、おすすめ人気順に表示しています。

(2,001〜4,000文字の作品を対象としています。読了時間は「400字/分」の読書スピードで計算した場合の目安です)
1〜29件 / 全29件
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「花がたみ」は第九回文展出品作で、大正四年の制作である。
今でこそ洋画にしろ日本画にしろ、モデルというものが大きな問題となっているが、今から四、五十年も前の我が画壇をふり返ってみると、そんなものはまるでなかった。
ちいさい頃から、いろいろの髷を考案して近所の幼友達にそれを結ってあげ、ともにたのしんだのがこうじて、年がつもるにしたがって女の髷というものに興味を深くもつようになった。
浮世絵画家の肉筆というものは、錦絵とはちがった別の味わいがあるものですが、こんど蒐集陳列されたものは、屏風、掛物、巻、画帖など種々な形のものがあって、しかも何しろ二百点ばかりもあったろうと思いますから、こういう展覧会としても、なかなか見ごたえのあるものでした。
心忙しい気もちから脱れて、ゆっくり制作もし、また研究もしたいと年中そればかりを考えていながら、やはり心忙しく過ごしています。
「その父賢にして、その子の愚なるものは稀(めずら)しからず。
○伊勢の白子浜に鼓が浦という漁村があって、去年からそこに一軒の家を借りまして、夏じゅうだけ避暑といってもよし、海気に親しむといってもよし、家族づれで出かけていって、新鮮な空気と、清涼な海水に触れてくることにしています。
私は明治八年四月二十三日四条通り御幸町西へ行った所に生まれました。
○この間私はある方面から質のいい古い唐紙を手に入れましたので、戯れに興味描きを試みまして、知合いの人にも贈ったりしました。
私が絵を習い始めた頃を想い出すと、まことに伸々として懐かしいものが、数々あります。
いつからとなく描きためかきためした写生帖が、今は何百冊と云ふ数に上つてゐる。
私には、どうも絵以外のことですと、どうせ余技にすぎないからという気がして、打ち込んで熱中する気になれない性分があるようです。
父の顔を知らない私には、母は「母と父をかねた両親」であった。
自分の思う絵を、私は機運がくると、たちまちそれの鬼となって、火の如き熱情を注いで――これまでにずいぶんと数多くの制作をして来た。
京都の街も古都というのはもう名ばかりで私の幼な頃と今とではまるで他処の国のように変ってしまってます。
汽車の旅をして、いちばん愉しいことは、窓にもたれて、ぼんやりと流れてゆく風景を眺めていることである。
私は今婦女風俗の屏風一双を描いておりますが、これは徳川末期の風俗によったもので、もうそろそろ仕上りに近づいております。
眉目秀麗にしてとか、眉ひいでたる若うどとか、怒りの柳眉を逆だててとか、三日月のような愁いの眉をひそめてとか、ほっと愁眉をひらいてとか……古人は目を心の窓と言ったと同時に眉を感情の警報旗にたとえて、眉についていろいろの言いかたをして来たものである。
十三年の年に小学校を卒業し、翌年十四歳の春、京都府立画学校へ入学しました。
もう丁度、五十年の昔になりましょうかしら、たしか、私の十九歳の頃のことでした。
いつだったか、ある東京の婦人雑誌の記者が数人見えて、私のいろいろな生活を写真に撮られたり記事にして行かれたことがあった。
○責任のある画債を少しずつ果していっておりますが、なかなか埓(らち)があきません。
下手の横好きと言いますか、私は趣味のうちでは謡曲を第一としています。
二、三年前竹杖会の研究会で年に二点は大小に拘わらず是非出品しなければいけないという規則が出来ましたので、いつぞや小品を一点持出したことがあります。
縮図の帳面もう大分と前の話ですが、裏ン町で火事があって火の子がパッパッと飛んで来て、どうにも手のつけようがないと思ったことがありました。
最近年の栖鳳先生はずっと湯河原にお出でになられたものですから滅多にお会いする機会もなくなり、何彼と先生のことを思い出そうとしますとどうしてもずっと古いことがあれこれと思い浮かばせられます。
土田麦僊さんが御在世の折、よく私の筆胼胝(だこ)が笑い話になりましたものです。
私は京の四条通りの、今、万養軒という洋食屋になってるところにあった家で生まれた。
茶の袴私が画学校に行っていた時、学校の古顔に前田玉英さんがいました。
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