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国木田独歩の全作品

青空文庫で公開されている国木田独歩の全作品43篇を、おすすめ人気順で表示しています。

1〜43件 / 全43件
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「武蔵野の俤(おもかげ)は今わずかに入間郡に残れり」と自分は文政年間にできた地図で見たことがある。
多摩川の二子の渡しをわたって少しばかり行くと溝口という宿場がある。
今より六七年前、私はある地方に英語と数学の教師をしていたことがございます。
明治倶楽部とて芝区桜田本郷町のお堀辺に西洋作の余り立派ではないが、それでも可なりの建物があった、建物は今でもある、しかし持主が代って、今では明治倶楽部その者はなくなって了った。
※(たの)一※(たの)十一月某日、自分は朝から書斎にこもって書見をしていた。
上五六人の年若い者が集まって互いに友の上を噂(うわさ)しあったことがある、その時、一人が――僕の小供の時からの友に桂正作という男がある、今年二十四で今は横浜のある会社に技手として雇われもっぱら電気事業に従事しているが、まずこの男ほど類の異った人物はあるまいかと思われる。
画を好かぬ小供は先ず少ないとしてその中にも自分は小供の時、何よりも画が好きであった。
丘の白雲大空に漂う白雲の一つあり。
何公爵の旧領地とばかり、詳細い事は言われない、侯伯子男の新華族を沢山出しただけに、同じく維新の風雲に会しながらも妙な機から雲梯をすべり落ちて、遂には男爵どころか県知事の椅子一にも有つき得ず、空しく故郷に引込んで老朽ちんとする人物も少くはない、こういう人物に限ぎって変物である、頑固である、片意地である、尊大である、富岡先生もその一人たるを失なわない。
秋の中過、冬近くなると何れの海浜を問ず、大方は淋(さび)れて来る、鎌倉も其(その)通りで、自分のように年中住んで居る者の外は、浜へ出て見ても、里の子、浦の子、地曳網の男、或(あるい)は浜づたいに往通う行商を見るばかり、都人士らしい者の姿を見るのは稀(まれ)なのである。
某法學士洋行の送別會が芝山内の紅葉館に開かれ、會(くわい)の散じたのは夜の八時頃でもあらうか。
『鹿狩りに連れて行こうか』と中根の叔父が突然に言ったので僕はまごついた。
わが青年の名を田宮峰二郎と呼び、かれが住む茅屋は丘の半腹にたちて美わしき庭これを囲み細き流れの北の方より走り来て庭を貫きたり。
絶望文造は約束どおり、その晩は訪問しないで、次の日の昼時分まで待った。
僕の十四の時であった。
今度の戦で想い出した、多分太沽沖にあるわが軍艦内にも同じような事があるだろうと思うからお話しすると、横須賀なるある海軍中佐の語るには、わが艦隊が明治二十七年の天長節を祝したのは、あたかも陸兵の華園口上陸を保護するため、ベカ島の陰に集合していた時である。
この度は貞夫に結構なる御品御贈り下されありがたく存じ候、お約束の写真ようよう昨日でき上がり候間二枚さし上げ申し候、内一枚は上田の姉に御届け下されたく候、ご覧のごとくますます肥え太りてもはや祖父様のお手には荷が少々勝ち過ぎるように相成り候、さればこのごろはただお膝の上にはい上がりてだだをこねおり候、この分にては小生が小供の時きき候と同じ昔噺を貞坊が聞き候ことも遠かるまじと思われ候、これを思えば悲しいともうれしいとも申しようなき感これありこれ必ず悲喜両方と存じ候、父上は何を申すも七十歳いかに...
都に程近き田舎に年わかき詩人住みけり。
京橋区三十間堀に大来館という宿屋がある、まず上等の部類で客はみな紳士紳商、電話は客用と店用と二種かけているくらいで、年じゅう十二三人から三十人までの客があるとの事。
(前略)久しぶりで孤獨の生活を行つて居る、これも病氣のお蔭(かげ)かも知れない。
北風を背になし、枯草白き砂山の崕(がけ)に腰かけ、足なげいだして、伊豆連山のかなたに沈む夕日の薄き光を見送りつ、沖より帰る父の舟遅しとまつ逗子あたりの童の心、その淋(さび)しさ、うら悲しさは如何あるべき。
亞弗利加洲にアルゼリヤといふ國(くに)がある、凡そ世界中此國(このくに)の人ほど怠惰者はないので、それといふのも畢竟(ひつきやう)は熱帶地方のことゆえ檸檬(れもん)や、橙(だい/\)の花咲き亂れて其(その)得ならぬ香四方に立ちこめ、これに觸(ふ)れる人は自から睡眠を催ふすほどの、だらりとした心地の好い土地柄の故でもあらう。
雲飛といふ人は盆石を非常に愛翫した奇人で、人々から石狂者と言はれて居たが、人が何と言はうと一切頓着せず、珍しい石の搜索にのみ日を送つて居た。
『房、奥様の出る時何とか言つたかい。
ぼろ洋服を着た男爵加藤が、今夜もホールに現われている。
少年の歓喜が詩であるならば、少年の悲哀もまた詩である。
内山君足下何故そう急に飛び出したかとの君の質問は御尤である。
九段坂の最寄にけちなめし屋がある。
上秋は小春のころ、石井という老人が日比谷公園のベンチに腰をおろして休んでいる。
さて、明治の御代もいや栄えて、あの時分はおもしろかったなどと、学校時代の事を語り合う事のできる紳士がたくさんできました。
餅は円形きが普通なるわざと三角にひねりて客の目を惹(ひ)かんと企みしようなれど実は餡(あん)をつつむに手数のかからぬ工夫不思議にあたりて、三角餅の名いつしかその近在に広まり、この茶店の小さいに似合わぬ繁盛、しかし餅ばかりでは上戸が困るとの若連中の勧告もありて、何はなくとも地酒一杯飲めるようにせしはツイ近ごろの事なりと。
東京の夜の有様を話して呉れとの諸君のお望、可しい、話しましよう、然し僕は重に赤坂区に住んで居たから、赤坂区だけの、実地に見た処を話すことに致します。
上夏の初、月色街に満つる夜の十時ごろ、カラコロと鼻緒のゆるそうな吾妻下駄の音高く、芝琴平社の後のお濠ばたを十八ばかりの少女、赤坂の方から物案じそうに首をうなだれて来る。
上田豊吉がその故郷を出たのは今よりおおよそ二十年ばかり前のことであった。
秋の初の空は一片の雲もなく晴て、佳い景色である。
定めし今時分は閑散だらうと、其(その)閑散を狙つて來(き)て見ると案外さうでもなかつた。
余が札幌に滞在したのは五日間である、僅に五日間ではあるが余は此間に北海道を愛するの情を幾倍したのである。
※一※時田先生、名は立派なれど村立小学校の教員である、それも四角な顔の、太い眉の、大きい口の、骨格のたくましい、背の低い、言うまでもなく若い女などにはあまり好かれない方の男。
上都より一人の年若き教師下りきたりて佐伯の子弟に語学教うることほとんど一年、秋の中ごろ来たりて夏の中ごろ去りぬ。
上大庭真蔵という会社員は東京郊外に住んで京橋区辺の事務所に通っていたが、電車の停留所まで半里以上もあるのを、毎朝欠かさずテクテク歩いて運動にはちょうど可いと言っていた。
※上※五月二日付の一通、同十日付一通、同二十五日付の一通、以上三通にてわれすでに厭(あ)き足りぬと思いたもうや。
今より四年前のことである、(とある男が話しだした)自分は何かの用事で銀座を歩いていると、ある四辻の隅に一人の男が尺八を吹いているのを見た。
五月三日(明治三十〇年)「あの男はどうなったかしら」との噂(うわさ)、よく有ることで、四五人集って以前の話が出ると、消えて去くなった者の身の上に、ツイ話が移るものである。
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