書き出し
上酒折の宮、山梨の岡、鹽山、裂石、さし手の名も都人の耳に聞きなれぬは、小佛さゝ子の難處を越して猿橋のながれに眩(めくる)めき、鶴瀬、駒飼見るほどの里もなきに、勝沼の町とても東京にての場末ぞかし、甲府は流石に大厦高樓、躑躅(つゝじ)が崎の城跡など見る處のありとは言へど、汽車の便りよき頃にならば知らず、こと更の馬車腕車に一晝夜をゆられて、いざ惠林寺の櫻見にといふ人はあるまじ、故郷なればこそ年々の夏休みにも、人は箱根伊香保ともよふし立つる中を、我れのみ一人あし曳の山の...
底本
「日本現代文學全集 10 樋口一葉集」講談社, 1962(昭和37)年11月19日