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菊池寛の全作品

青空文庫で公開されている菊池寛の全作品76篇を、おすすめ人気順で表示しています。

1〜50件 / 全76件
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市九郎は、主人の切り込んで来る太刀を受け損じて、左の頬から顎へかけて、微傷ではあるが、一太刀受けた。
摂津半国の主であった松山新介の侍大将中村新兵衛は、五畿内中国に聞こえた大豪の士であった。
人物黒田賢一郎二十八歳その弟新二郎二十三歳その妹おたね二十歳彼らの母おたか五十一歳彼らの父宗太郎時明治四十年頃所南海道の海岸にある小都会情景中流階級のつつましやかな家、六畳の間、正面に箪笥があって、その上に目覚時計が置いてある。
奇禍汽車が大船を離れた頃から、信一郎の心は、段々烈しくなって行く焦燥しさで、満たされていた。
昔、しなの都に、ムスタフという貧乏な仕立屋が住んでいました。
自分は現代の作家の中で、一番志賀氏を尊敬している。
昔、ペルシャのある町に、二人の兄弟が住んでいました。
真田対徳川真田幸村の名前は、色々説あり、兄の信幸は「我弟実名は武田信玄の舎弟典厩と同じ名にて字も同じ」と云っているから信繁と云ったことは、確である。
芥川の死について、いろいろな事が、書けそうで、そのくせ書き出してみると、何も書けない。
僕は先ず、「二十五歳未満の者、小説を書くべからず」という規則を拵(こしら)えたい。
家康の本陣へ呼び付けられた忠直卿の家老たちは、家康から一たまりもなく叱り飛ばされて散々の首尾であった。
元禄と云う年号が、何時の間にか十余りを重ねたある年の二月の末である。
杉田玄白が、新大橋の中邸を出て、本石町三丁目の長崎屋源右衛門方へ着いたのは、巳刻を少し回ったばかりだった。
上州岩鼻の代官を斬り殺した国定忠次一家の者は、赤城山へ立て籠って、八州の捕方を避けていたが、其処も防ぎきれなくなると、忠次を初、十四五人の乾児は、辛く一方の血路を、斫(き)り開いて、信州路へ落ちて行った。
天下大乱の兆応仁の大乱は応仁元年より、文明九年まで続いた十一年間の事変である。
自分が、易や手相のことを書くと笑う人がいるかも知れないが、自分が一生に一度見て貰った手相は、実によく適中した。
治承二年九月二十三日のことである。
――よしと云ひあしと云はれつ難波がたうきふししげき世を渡るかな――人物所時凡て知れず。
金を売る七月、もうすっかり夏であるべきはずだのに、この三日ばかり、日の目も見せず、時々降る雨に、肌寒いような涼しさである。
原因元亀元年六月二十八日、織田信長が徳川家康の助力を得て、江北姉川に於て越前の朝倉義景、江北の浅井長政の連合軍を撃破した。
夏之陣起因今年の四月初旬、僕は大阪に二三日いたが、最近昔の通りに出来たと云う大阪城の天守閣に上って見た。
次ぎに載せるのは、自分の馬券哲学である。
人物国定忠治稲荷の九郎助板割の浅太郎島村の嘉助松井田の喜蔵玉村の弥助並河の才助河童の吉蔵闇雲の牛松釈迦の十蔵その他三名時所上州より信州へかかる山中。
戦前の形勢再度の長州征伐に失敗して、徳川幕府の無勢力が、完全に暴露された。
碁の手直り表菊地寛我々の倶楽部と云うものが、木挽町八丁目にある。
△△△地方裁判所の、刑事部の裁判長をしている、判事若杉浩三氏は若い時、かなり敬虔なクリスチャンでありました。
今年の初、内閣情報部から発行してゐる「週報」から、最も簡単な日本歴史を書いてくれとの註文を受けた。
信長の崛起天文十八年三月のこと、相遠参三ヶ国の大名であった今川氏を始めとし四方の豪族に対抗して、尾張の国に織田氏あることを知らしめた信秀が年四十二をもって死んだ。
寛永十四年の夏は、九州一円に近年にない旱炎な日が続いた。
鶏林八道蹂躙之事対馬の宗義智が、いやがる朝鮮の使者を無理に勧説して連れて来たのは天正十八年七月である。
譲吉は、上野の山下で電車を捨てた。
二人の生活は、八月に入つてから、愈々困憊の極に達して居た。
元亀三年十二月二十二日、三方ヶ原の戦に於て、信玄は浜松の徳川家康を大敗させ、殆ど家康を獲んとした。
私の妻の祖母は――と云って、もう三四年前に死んだ人ですが――蔵前の札差で、名字帯刀御免で可なり幅を利かせた山長――略さないで云えば、山城屋長兵衛の一人娘でした。
京師室町姉小路下る染物悉皆商近江屋宗兵衛の老母おかんは、文化二年二月二十三日六十六歳を一期として、卒中の気味で突然物故した。
将棋はとにかく愉快である。
川中島に於ける上杉謙信、武田信玄の一騎討は、誰もよく知って居るところであるが、其合戦の模様については、知る人は甚だ少い。
三筋の別れ道まだ天子様の都が、京都にあった頃で、今から千年も昔のお話です。
昔、朝廷では毎年七月に相撲の節会が催された。
駿河の府中から遠からぬ田舎である。
ものの本によると、京都にも昔から自殺者はかなり多かった。
陶晴賢が主君大内義隆を殺した遠因は、義隆が相良遠江守武任を寵遇したからである。
関東の北条天正十五年七月、九州遠征から帰って来た秀吉にとって、日本国中その勢いの及ばないのは唯関東の北条氏あるだけだ。
切支丹宗徒蜂起之事肥後の国宇土の半島は、その南方天草の諸島と共に、内海八代湾を形造って居る。
隆房大納言が、検非違使(警視庁と裁判所をかねたもの)の別当(長官)であった時の話である。
西郷降盛が兵を率いて鹿児島を発したときの軍容は次の通りである。
建武中興の崩壊中島商相が、足利尊氏のために、災禍を獲た。
人物狂人勝島義太郎二十四歳その弟末次郎十七歳の中学生その父義助その母およし隣の人藤作下男吉治二十歳巫女と称する女五十歳位時明治三十年代所瀬戸内海の讃岐に属する島舞台この小さき島にては、屈指の財産家なる勝島の家の裏庭。
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