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上村松園の全作品(2ページ目)

青空文庫で公開されている上村松園の全作品83篇を、おすすめ人気順で表示しています。

51〜83件 / 全83件
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○伊勢の白子浜に鼓が浦という漁村があって、去年からそこに一軒の家を借りまして、夏じゅうだけ避暑といってもよし、海気に親しむといってもよし、家族づれで出かけていって、新鮮な空気と、清涼な海水に触れてくることにしています。
私は明治八年四月二十三日四条通り御幸町西へ行った所に生まれました。
○この間私はある方面から質のいい古い唐紙を手に入れましたので、戯れに興味描きを試みまして、知合いの人にも贈ったりしました。
私が絵を習い始めた頃を想い出すと、まことに伸々として懐かしいものが、数々あります。
いつからとなく描きためかきためした写生帖が、今は何百冊と云ふ数に上つてゐる。
私には、どうも絵以外のことですと、どうせ余技にすぎないからという気がして、打ち込んで熱中する気になれない性分があるようです。
父の顔を知らない私には、母は「母と父をかねた両親」であった。
自分の思う絵を、私は機運がくると、たちまちそれの鬼となって、火の如き熱情を注いで――これまでにずいぶんと数多くの制作をして来た。
京都の街も古都というのはもう名ばかりで私の幼な頃と今とではまるで他処の国のように変ってしまってます。
汽車の旅をして、いちばん愉しいことは、窓にもたれて、ぼんやりと流れてゆく風景を眺めていることである。
私は今婦女風俗の屏風一双を描いておりますが、これは徳川末期の風俗によったもので、もうそろそろ仕上りに近づいております。
眉目秀麗にしてとか、眉ひいでたる若うどとか、怒りの柳眉を逆だててとか、三日月のような愁いの眉をひそめてとか、ほっと愁眉をひらいてとか……古人は目を心の窓と言ったと同時に眉を感情の警報旗にたとえて、眉についていろいろの言いかたをして来たものである。
十三年の年に小学校を卒業し、翌年十四歳の春、京都府立画学校へ入学しました。
もう丁度、五十年の昔になりましょうかしら、たしか、私の十九歳の頃のことでした。
いつだったか、ある東京の婦人雑誌の記者が数人見えて、私のいろいろな生活を写真に撮られたり記事にして行かれたことがあった。
○責任のある画債を少しずつ果していっておりますが、なかなか埓(らち)があきません。
下手の横好きと言いますか、私は趣味のうちでは謡曲を第一としています。
二、三年前竹杖会の研究会で年に二点は大小に拘わらず是非出品しなければいけないという規則が出来ましたので、いつぞや小品を一点持出したことがあります。
縮図の帳面もう大分と前の話ですが、裏ン町で火事があって火の子がパッパッと飛んで来て、どうにも手のつけようがないと思ったことがありました。
最近年の栖鳳先生はずっと湯河原にお出でになられたものですから滅多にお会いする機会もなくなり、何彼と先生のことを思い出そうとしますとどうしてもずっと古いことがあれこれと思い浮かばせられます。
土田麦僊さんが御在世の折、よく私の筆胼胝(だこ)が笑い話になりましたものです。
私は京の四条通りの、今、万養軒という洋食屋になってるところにあった家で生まれた。
茶の袴私が画学校に行っていた時、学校の古顔に前田玉英さんがいました。
竹を割ったような性格私の母は、一口にいうと男勝りな、しっかり者でしたな。
昨年の五月のこと所用のため上京して私は帝国ホテルにしばらく滞在した。
高松宮家へ御輿入になる徳川喜久子姫の御調度の一にお加えになるのだからと申すので、旧臣の総代として京都大学の新村博士が私のところに見えられ、御屏風揮毫の御依頼がありました。
父私が生まれたのは明治八年四月二十三日ですが、そのときには、もう父はこの世にいられなかった。
まだ四条通りが、今のやうに電車が通つたり、道巾が取りひろげられなかつた頃、母と姉と私と三人で、今井八方堂と云ふ道具店の前にあたる、今の万養軒の処で葉茶屋をして居りました。
自分の画歴をふりかえって見ますと、ある時代には徳川期の錦絵的な題材を好んで主題にとっていたり、またある時代には支那風の影響に強く支配されていたりして、いろいろと変遷してきたものです。
上海にて仲秋まる一ヵ月の旅であった。
松園という雅号は鈴木松年先生が、先生の松の一字をとって下さったのと、絵を学びはじめたころ、私の店で宇治の茶商と取引きがあり、そこに銘茶のとれる茶園があったのとで、それにチナんで園をとり、「松園」とつけたものである。
海を渡りて年々、ずいぶんあわただしい生活がつづいている。
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