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福沢諭吉の全作品

青空文庫で公開されている福沢諭吉の全作品41篇を、おすすめ人気順で表示しています。

1〜41件 / 全41件
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初編「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。
慶應義塾の社中にては、西洋の学者に往々自から伝記を記すの例あるを以て、兼てより福澤先生自伝の著述を希望して、親しく之(これ)を勧めたるものありしかども、先生の平生甚だ多忙にして執筆の閑を得ずその儘(まま)に経過したりしに、一昨年の秋、或(あ)る外国人の需に応じて維新前後の実歴談を述べたる折、風と思い立ち、幼時より老後に至る経歴の概略を速記者に口授して筆記せしめ、自から校正を加え、福翁自伝と題して、昨年七月より本年二月までの時事新報に掲載したり。
福沢先生の手簡拝啓仕候。
この一編は、頃日、諭吉が綴るところの未定稿中より、教育の目的とも名づくべき一段を抜抄したるものなれば、前後の連絡を断つがために、意をつくすに足らず、よってこれを和解演述して、もって諸先生の高評を乞う。
物理学とは、天然の原則にもとづき、物の性質を明らかにし、その働を察し、これを採ってもって人事の用に供するの学にして、おのずから他の学問に異なるところのものあり。
『学問の独立』緒言近年、我が日本において、都鄙上下の別なく、学問の流行すること、古来、未だその比を見ず。
今日の文明は智恵の文明にして、智恵あらざれば何事もなすべからず、智恵あれば何事をもなすべし。
天地の間に生るゝ動物は肉食のものと肉を喰はざるものとあり。
中津留別の書人は万物の霊なりとは、ただ耳目鼻口手足をそなえ言語・眠食するをいうにあらず。
立国は私なり、公に非ざるなり。
左の一編は十一月十一日、府下芝区三田慶應義塾に於(おい)て福澤先生の演説したるその大意の筆記なり。
左の一編は、去月廿三日、府下芝区三田慶応義塾邸内演説館において、同塾生褒賞試文披露の節、福沢先生の演説を筆記したるものなり。
總論一、人間生涯の内、體ほど大切なるものはなし。
近日征韓の議論新聞紙上に飛雨をなし、世人の耳目も此論題に集るを以て、我儕の論鋒を之に向けること數囘、未だ心に慊らざりしが、福澤君より此論題に關する一議論を寄るに會へり。
明治十八年夏の頃、『時事新報』に「日本婦人論」と題して、婦人の身は男子と同等たるべし、夫婦家に居て、男子のみ独り快楽を専らにし独り威張るべきにあらず云々(うんぬん)の旨を記して、数日の社説に掲げ、また十九年五月の『時事新報』「男女交際論」には、男女両性の間は肉交のみにあらず、別に情交の大切なるものあれば、両性の交際自由自在なるべき道理を陳べたるに、世上に反対論も少なくして鄙見の行われたるは、記者の喜ぶ所なれども、右の「婦人論」なり、また「交際論」なり、いずれも婦人の方を本にして論を立てた...
旧藩情緒言一、人の世を渡るはなお舟に乗て海を渡るがごとし。
一人の教育と一国の教育とは自ずから区別なかるべからず。
人間の腹より生まれ出でたるものは、犬にもあらずまた豕(ぶた)にもあらず、取りも直さず人間なり。
夫れ女子は男子に等しく生れて父母に養育せらるゝの約束なれば、其成長に至るまで両親の責任軽からずと知る可し。
『西洋事情外篇』の初巻にいえることあり。
蘭学事始の原稿は素より杉田家に存して一本を秘蔵せしに、安政二年江戸大地震の火災に焼失して、医友又門下生の中にも曾(かつ)て之(これ)を謄写せし者なく、千載の遺憾として唯不幸を嘆ずるのみなりしが、旧幕府の末年に神田孝平氏が府下本郷通を散歩の折節、偶ま聖堂裏の露店に最と古びたる写本のあるを認め、手に取りて見れば紛れもなき蘭学事始にして、然かも※斎(いさい)先生の親筆に係り、門人大槻磐水先生に贈りたるものなり。
蘭学事始の原稿は素より杉田家に存して一本を秘蔵せしに、安政二年、江戸大地震の火災に焼失して、医友又門下生の中にも曾(かつ)て之(これ)を謄写せし者なく、千載の遺憾として唯不幸を嘆ずるのみなりしが、旧幕府の末年に神田孝平氏が府下本郷通を散歩の折節、偶ま聖堂裏の露店に最と古びたる写本のあるを認め、手に取りて見れば紛れもなき蘭学事始にして、然かも※斎(いさい)先生の親筆に係り門人大槻磐水先生に贈りたるものなり。
去年の春、我が慶応義塾を開きしに、有志の輩、四方より集り、数月を出でずして、塾舎百余人の定員すでに満ちて、今年初夏のころよりは、通いに来学せんとする人までも、講堂の狭きゆえをもって断りおれり。
今ここに会社を立てて義塾を創め、同志諸子、相ともに講究切磋し、もって洋学に従事するや、事、もと私にあらず、広くこれを世に公にし、士民を問わずいやしくも志あるものをして来学せしめんを欲するなり。
明治元年正月、伏見の変乱、前将軍慶喜公は軍艦に乗て東帰、次で諸方の官軍は問罪として東海東山の諸道より江戸に入り、関東の物論沸くが如く、怒て官兵に抗せんとする者あり、恐れて四方に遁逃する者あり。
文明日新の修身処世法は、如何なる主義に依り如何なる方向に進む可きやとは、今の青年学生の大に惑ふ所にして、先輩に対して屡※(しばしば)質問を起すものあり。
去る午年西洋諸國と御條約御取結に相成、新規御改法有之候所、太平打續候餘り、人の耳目に馴れざる義に付、御改法の御趣意は篤と承知も不仕、一時人氣動搖いたし候所え、諸藩士竝に浪人の輩、平生其身に不足有之候者共、人氣の騷立候を好き折といたし、妄に鎖國攘夷抔申儀を唱へ、諸大名え説込、又は京都え立入、議論の不及所は力業にて公然と人を殺害致す等、其勢追々増長致候に付、一には其勢に刧(おびやかさ)れ、一には其説に迷ひ候て、京都始諸侯にも右浪人共の申分に致一味候者も有之哉にて、既に一昨年大和一揆、尚又野州...
過般、榎本文部大臣が地方官に向って徳育の事を語り、大臣は儒教主義をとる者にして、いずれ近日儒教の要を取捨して、学生のために一書を編纂せしむべしとのことなり。
明治五年申五月朔日、社友早矢仕氏とともに京都にいたり、名所旧跡はもとよりこれを訪うに暇あらず、博覧会の見物ももと余輩上京の趣意にあらず、まず府下の学校を一覧せんとて、知る人に案内を乞い、諸処の学校に行きしに、その待遇きわめて厚く、塾舎・講堂、残るところなく見るを得たり。
左の一篇は、去る一三日、東京芝区三田二丁目慶応義塾邸内演説館において、福沢先生が同塾学生に向て演説の筆記なり。
左の一編は十一月一日、慶應義塾先進の故老生が懐旧会とて芝紅葉館に集会のとき、福澤先生の演説したるものなり。
政治は人の肉体を制するものにして、教育はその心を養うものなり。
ある人いわく、慶応義塾の学則を一見し、その学風を伝聞しても、初学の輩はもっぱら物理学を教うるとのこと、我が輩のもっとも賛誉するところなれども、学生の年ようやく長じて、その上級に達する者へは、哲学・法学の大意、または政治・経済の書をも研究せしむるという。
大陽暦と大陰暦との辨別此度大陰暦を止て大陽暦となし、明治五年十二月三日を明治六年一月一日と定めたるは一年俄(にはか)に二十七日の相違にて世間にこれを怪む者も多からんと思ひ、西洋の書を調て彼の國(くに)に行はるゝ大陽暦と、古來支那、日本等に用る大陰暦との相違を示すこと左の如し。
自尊自大と云ふことは固より惡いことはない。
一、世に為政の人物なきにあらず、ただ良政の下に立つべき良民乏しきのみ。
小学教育の事教育とは人を教え育つるという義にして、人の子は、生れながら物事を知る者に非ず。
『徳育如何』緒言方今、世に教育論者あり。
学者安心論店子いわく、向長屋の家主は大量なれども、我が大家の如きは古今無類の不通ものなりと。
帝室論緒言我日本の政治に關して至大至重のものは帝室の外にある可らずと雖ども、世の政談家にして之を論ずる者甚だ稀なり。
夫女子は成長して他人の家へ行き舅(しゅうと)姑(しゅうとめ)に仕ふるものなれば、男子よりも親の教緩にすべからず。
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