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森鴎外の全作品

青空文庫で公開されている森鴎外の全作品90篇を、おすすめ人気順で表示しています。

1〜50件 / 全90件
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石炭をば早や積み果てつ。
高瀬舟は京都の高瀬川を上下する小舟である。
金井湛(しずか)君は哲学が職業である。
高瀬舟は京都の高瀬川を上下する小舟である。
越後の春日を経て今津へ出る道を、珍らしい旅人の一群れが歩いている。
石炭をば早や積み果てつ。
壱古い話である。
従四位下左近衛少将兼越中守細川忠利は、寛永十八年辛巳の春、よそよりは早く咲く領地肥後国の花を見すてて、五十四万石の大名の晴れ晴れしい行列に前後を囲ませ、南より北へ歩みを運ぶ春とともに、江戸を志して参勤の途に上ろうとしているうち、はからず病にかかって、典医の方剤も功を奏せず、日に増し重くなるばかりなので、江戸へは出発日延べの飛脚が立つ。
唐の貞観のころだというから、西洋は七世紀の初め日本は年号というもののやっと出来かかったときである。
その三十七年如一瞬。
元文三年十一月二十三日の事である。
朝小間使の雪が火鉢に火を入れに来た時、奥さんが不安らしい顔をして、「秀麿の部屋にはゆうべも又電気が附いていたね」と云った。
何か事情があって、川開きが暑中を過ぎた後に延びた年の当日であったかと思う。
堺事件森鴎外明治元年戊辰(ぼしん)の歳(とし)正月、徳川慶喜(よしのぶ)の軍が伏見、鳥羽に敗れて、大阪城をも守ることが出来ず、海路を江戸へ遁(のが)れた跡で、大阪、兵庫、堺の諸役人は職を棄てて潜(ひそ)み匿(かく)れ、これ等の都会は一時無政府の状況に陥った。
元文三年十一月二十三日の事である。
壱小泉純一は芝日蔭町の宿屋を出て、東京方眼図を片手に人にうるさく問うて、新橋停留場から上野行の電車に乗った。
一、西町奉行所天保八年丁酉の歳二月十九日の暁方七つ時に、大阪西町奉行所の門を敲(たゝ)くものがある。
その頼山陽は寛政十二年十一月三日に、安藝国広島国泰寺裏門前杉木小路の父春水の屋敷で、囲の中に入れられ、享和三年十二月六日まで屏禁せられて居り、文化二年五月九日に至つて、「門外も為仕度段、存寄之通可被仕候」と云ふ浅野安藝守重晟が月番の達しに依つて釈された。
上幾頭の獅子の挽(ひ)ける車の上に、勢よく突立ちたる、女神バワリアの像は、先王ルウドヰヒ第一世がこの凱旋門に据ゑさせしなりといふ。
文化六年の春が暮れて行く頃であった。
某儀明日年来の宿望相達し候て、妙解院殿(松向寺殿)御墓前において首尾よく切腹いたし候事と相成り候。
目前には広々と海が横はつてゐる。
渡辺参事官は歌舞伎座の前で電車を降りた。
それがしの宮の催したまひし星が岡茶寮の独逸会に、洋行がへりの将校次を逐うて身の上ばなしせし時のことなりしが、こよひはおん身が物語聞くべきはずなり、殿下も待兼ねておはすればと促されて、まだ大尉になりてほどもあらじと見ゆる小林といふ少年士官、口に啣(くわ)へし巻烟草取りて火鉢の中へ灰振り落して語りは始めぬ。
播磨国飾東郡姫路の城主酒井雅楽頭忠実の上邸は、江戸城の大手向左角にあった。
文化六年の春が暮れて行く頃であつた。
鍋はぐつぐつ煮える。
寛永九年六月十五日に、筑前國福岡の城主黒田右衞門佐忠之の出した見廻役が、博多辻(つじ)の堂町で怪しい風體の男を捕へた。
それがしの宮の催したまいし星が岡茶寮のドイツ会に、洋行がえりの将校次をおうて身の上ばなしせしときのことなりしが、こよいはおん身が物語聞くべきはずなり、殿下も待ちかねておわすればとうながされて、まだ大尉になりてほどもあらじと見ゆる小林という少年士官、口にくわえし巻煙草取りて火鉢の中へ灰ふり落して語りははじめぬ。
一、今日の地位に至れる径路政略と云うようなものがあるかどうだか知らない。
芸術に主義というものは本来ないと思う。
木村は官吏である。
温泉宿から皷(つづみ)が滝へ登って行く途中に、清冽な泉が湧き出ている。
わたくしの近頃書いた、歴史上の人物を取り扱つた作品は、小説だとか、小説でないとか云つて、友人間にも議論がある。
六疊の間に、床を三つ並べて取つて、七つになる娘を眞中に寢かして、夫婦が寢てゐる。
明け易い夏の夜に、なんだってこんなそうぞうしい家に泊り合わせたことかと思って、己はうるさく頬(ほお)のあたりに飛んで来る蚊を逐いながら、二間の縁側から、せせこましく石を据えて、いろいろな木を植え込んである奥の小庭を、ぼんやり眺めている。
PlatonPlaton は何故に共産主義者とせられてゐるか。
「仲平さんはえらくなりなさるだろう」という評判と同時に、「仲平さんは不男だ」という蔭言が、清武一郷に伝えられている。
人物主人客譯者場所主人の書齋。
石田小介が少佐参謀になって小倉に着任したのは六月二十四日であった。
私は話をすることが非常に下手なので、話をしろと云はれると實に氣になつてならない。
鼎軒先生には一度もお目に掛かつたことがない、私は少壯の頃、暇があれば本ばかり讀んでゐたので名家の演説などをもわざ/\聽きに往つたことが殆ど無い、そこで餘所ながら先生のお顏を見る機會をも得ないでしまつた、先生がアアリア人種に日本人も屬するといふことを論じた小册子を出された頃であつた、友人上田敏君が宅の二階に來て、話をしてゐられた、私はふいと思ひ出して、かう云つた、「僕は此頃田口卯吉と云ふ人の書いた本を見たが、日本人がアアリア人種だと云ふ論斷がしてある、そしてその理由として...
我に問ふ、何故に久しく文を論ぜざるかと。
名を聞いて人を知らぬと云うことが随分ある。
父が開業をしていたので、花房医学士は卒業する少し前から、休課に父の許へ来ている間は、代診の真似事をしていた。
豊太閤が朝鮮を攻めてから、朝鮮と日本との間には往来が全く絶えていたのに、宗対馬守義智が徳川家の旨を承けて肝いりをして、慶長九年の暮れに、松雲孫、文※[#「或」の「ノ」の部分が三本、102-2]、金考舜という三人の僧が朝鮮から様子を見に来た。
カントが発狂の階梯だと恐れた夢を自身に検究する事に再び着目したるは、新約克のジユリウス、ネルソン Julius Nelson です、既に記録した夢の数は四千あつて、短いのは一語で写され、長いのには百語を費す、ネルソンは夢を区別して晩夢、夜夢、朝夢の三としたり、晩夢は疲労の日に継ぐもので、大抵日業の継続から悲壮的の結末を示し――昼間氷※の戯をなし夕にもこれを夢み遂に僵る――醒める時には筋肉の劇動をし又は叫喚す、夜夢は日間神経の刺衝興奮に継ぐ――火災の後に烟火の昇るを、点竄をなす後に難符号の...
徒然草に最初の仏はどうして出来たかと問われて困ったというような話があった。
徒然草に最初の佛(ほとけ)はどうして出來たかと問はれて困つたと云(い)ふやうな話があつた。
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