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高村光雲の全作品

青空文庫で公開されている高村光雲の全作品80篇を、おすすめ人気順で表示しています。

1〜50件 / 全80件
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総領娘を亡くしたことはいかにも残念であったが、くよくよしている場合でもなく、一方には学校という勤めがあるので取りまぎれていました。
ここで、少し断わって置かねばならぬことは、こういう門弟たちのことは別段興味のある話しというではなく、また事実としても、いわば私事になって、特に何かの参考となることでもありませんから、深く立ち入り、管々しくなることは避けたいと思います。
話が少し元へ返って、私の十二の時が文久三年、十三が確か元治元年の甲子年であった。
さて、いよいよ話が決まりましたその夜、父は私に向い、今日までは親の側にいて我儘は出来ても、明日からは他人の中に出ては、そんな事は出来ぬ。
さて、楠公像は、この原型を同じ美術学校の鋳金科教授岡崎雪声氏が鋳造致して住友家へ引き渡したことでありました。
ついでながら師匠東雲師の家の跡のことをいって置きましょう。
床屋の話が出たついで故、ちょっと話しましょう。
さて、差し当っての責任として、私が主として師匠東雲師の葬送のことを取り計らわねばならぬ次第となったのであります。
されば追っかけて、また一つ外国人からの注文がありました。
私の十四歳の暮、すなわち慶応元年丑年の十二月十四日の夜の四ツ時(午後十時)浅草三軒町から出火して浅草一円を烏有に帰してしまいました。
帰ったのは九ツ過ぎ(十二時過ぎ)でした。
さて、展覧会もやがて閉会に近づいた頃、旅先から若井兼三郎氏が帰って来た。
下谷西町で相変らずコツコツと自分の仕事を専念にやっている中に、妙なことで計らず少し突飛な思い附きで余計な仕事を遊び半分にしたことがあります。
木寄せのことを、ざっと話して置きましょう。
そこで、この会名の相談になったのでありますが、牙彫家の集団の会であるから、牙彫の「牙」という文字を入れるか、入れないかという間題になった。
三月十二日にお雇いを拝命すると、間もなく、岡倉幹事は私に奈良見物をして来てくれということでした。
それから、もう一つ、歳の市をやったことがあります。
今日までの話にはまだ門人の事について話が及んでおりませんから、今日はそれを話しましょう。
それから、また暫くの後、或る日私が仕事場で仕事をしていると、一人の百姓のような風体をした老人が格子戸を開けて訪ねて来ました。
師匠東雲師の家が諏訪町へ引っ越して、三、四年も経つ中に、珍しかった硝子戸のようなものも、一般ではないが流行って来る。
この時代のことで、おもしろい話がある。
その時分の私の住居は、下谷西町三番地(旧立花家の屋敷跡の一部)にありました。
さて、五体の観音は師匠の所有に帰し「まあ、よかった」と師匠とともに私は一安心しました。
当日は会の発表祝賀会を兼ねて製作展覧を催したのでありました。
明治八年は私が二十三で年季が明けて、その明年私の二十四の時、その頃神仏混淆であった従来からの習慣が区別されることになった。
ちょうど、その時分、虎の門際の辰(たつ)ノ口に工部省で建てた工部学校というものが出来ました。
かれこれ批評を聞いたり、姿形を研究したりしている間に、一月余りも経ってしまいましたので、いよいよ取り掛かることにしました。
明治八、九年頃は私も既に師匠の手を離れて仏師として一人前とはなっておりましたが、さて、一人前とは申しながら、まだ立派に世に立つに到ったとはいえない。
江戸のいわゆる、八百八街には、火消しが、いろは四十八組ありました。
これから私のことになる――私は、現今の下谷の北清島町に生まれました。
とかくする中、ここに降って湧いたような事件が起りました。
とかくしている中、また一つ私の生活に変化が来ました。
上野の戦争が終んで後私が十八、九のことであったか。
以前狆(ちん)のモデルで苦労した経験がありますから、今度はチャボのモデルは好い上にも好いのを選みたいというのが私の最初の考えであった。
佐竹の原に途方もない大きな大仏が出来て、切舞台で閻魔の踊りがあるという評判で、見物人が来て見ると、果して雲を突くような大仏が立っている。
それから、三月一杯掛かって、四月早々仕上げを終る……その前後にまた一つお話しをして置くことが出て来る……美術協会の展覧会は、毎年四月に開かれることになっている。
原型の楠公像はすべて檜材を用い、原型全部出来ましたので、明治二十六年三月十六日に学校庭内に組み立て、時の文部大臣並びに学校に関係ある諸氏の一覧に供したのであるが、住友家から学校へ製作を依嘱したのが明治二十三年。
そこで、これから師東雲先生の生い立ちを話します。
狆の製作が終ってから暫くしてふと鶏を彫ることになりました。
さて、これから後の始末をつける段となるのでありますが、急に師匠に逝かれては、どうして好いか方角も付きません。
「いやしくも仏師たるものが、自作を持って道具屋の店に売りに行く位なら、焼き芋でも焼いていろ、団子でもこねていろ」これは高橋鳳雲が時々私の師匠東雲にいって聞かせた言葉だそうであります。
暫く話を途切らしたんで、少し調子がおかしい……何処まで話したっけ……さよう……この前の話の処でまず一段落附いたことになっていた。
さて、今日から考えて見ても、当時私の身に取って、いろいろな意味において幸福であったと思うことは、師匠東雲師が、まことに良い華客場を持っていられたということであります。
早速彫らされることになる――この話はしにくい。
今の猫と鼠の話のあった前後の頃おい(確か十五の年)は徳川氏の世の末で、時勢の変動激しく、何かと騒擾が引き続く。
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